祖父母はかつて、京都山科で小さな下宿屋をやっていた。
客は地元の若い警官で、いわば独身寮のようなものだった。
ある日の朝、祖母が玄関を開けると、軒先に若い男女がうずくまっていた。
聞くと行き倒れのようなものである。
九州から来たといっていた。名は鈴木さん。
しかし事情(なぜ彼らが九州にいて、そこから京都に来て、さらに祖父母の軒先にたどり着いたかについては色々あるのだが、個人的な事柄なので割愛する)があって行く宛がなく、ここで夜露をしのがせてもらっていたという。
気の毒に思った祖母は、お金がないというふたりをしばらく、空いている部屋に置いてやった。
そのうち近所のとある施設に住めそうだというので保証してやり、二人はようやくそこに腰を落ち着けた。
その施設は本当にごく近くにあったので、それからも余った食べ物があればあげたり、向こうも何かあれば相談にくるという感じで、なんとなく世話をしている風になっていった。
そして鈴木さんはすぐに、自分たちで仕事を始めた。
最初は何の元手もないから、とにかく「何でも屋」。
動く手足を使って力仕事をした。
いくつか仕事を変えた後、業務用の清掃道具を買ってきて周辺の家をまわり、掃除の代行業を始めた。
特に昔のトイレはくみ取り式だったから、少し掃除をさぼるとすぐに汚くなる。
そこで塩酸などの薬品などを使って徹底的に掃除するというのは、それなりの需要があったようだ。
(元々彼らが入所した施設でも、トイレ掃除の奉仕活動は行っていたようだ)
それから太平洋戦争が始まると、入手が難しくなった蝋燭の代用品を作ったりしていた。
ある日、そんな彼らが家に来て、祖父母にこんな話をした。
「雑巾を使って、新しい事業を始めようと思います」
「今度は雑巾か」
祖父は呵々と笑った。
祖父母の方も、下宿屋になる前後に左官屋、食堂、焼き芋屋、駄菓子屋などと商売をやってはうまくいかずに転業しており(最終的に自転車預かりでやっと成功した)、このあたりは彼らとウマが合ったようだ。
「雑巾を貸し出す商売なんです」
「雑巾なんて貸して、商売になるかね」
「勝算があります」
どんな勝算だと聞くと、家庭や会社に雑巾を貸し出して掃除に使ってもらう。
一定期間ごとに訪問して、新しい雑巾と取り替える。
そのときに並行して、清掃の受注営業も行う。
いきなり「掃除の御用はありませんか」と訪ねるよりも、定期的に訪問できるから信用ができて効率的だし、雑巾自体のコストも高くない。
祖父母はそういうものか、と首をかしげていたが、鈴木さんは大丈夫ですと胸を張っていた。
そのうちトラックを新調し、道具も立派になり、人を雇い始めた。
戦争が終わると事業は波に乗り、清掃道具の販売やビルメンテナンスなどに手を広げた。
二人の事業は年を経るごとに急成長し、全国区の大企業となっていった。
ほら、あの会社ですよ。
雑巾貸し出す。貸し出す雑巾。出す雑巾。出す巾。(→Wikipedia)
でもこの話、世間に公表されているものとは全然違うんだよね。
ただし社名の由来は、生前の鈴木さんから直接聞いたらしいから間違いない(冗談の可能性もあるが)。
全体的には、ほんまかいな、という感じで。