2009年12月16日

高嶋哲夫『乱神』の時代


高嶋哲夫『乱神』(幻冬舎刊)は、鎌倉時代の元寇を題材にしています。
文永の役の恐怖さめやらぬ博多に、十字軍の騎士たちが漂着するという英雄譚です。

この時代については、へえーと(私が)思ったことがいくつかあります。

■中世の通貨について

本格的な鉱山開発や精錬法が確立するのは16世紀以降のことで、それまで金銀の貴金属は贈答や仏像、工芸品の制作に用いられるだけでした。
為政者による通貨の鋳造・発行も行われておらず、この頃の流通通貨とは、大陸から輸入された、1枚1文の銅銭のことです。

銭は10文で1疋、100疋で1貫と勘定します。つまり1貫で銭1000枚。

高額貨幣は存在しないので、銭は中央の穴に紐をとおしてひとまとめ。
非常にかさばります。
銅銭1枚が3.5グラムほど。一貫となると3.5キログラムになります。
現金は100文をたばねた一結と、1000文をたばねた一連とよばれる「さし銭」で取引しました。
一連では100文ごとに結び目をつくっておくのですが、正確に100文づつということはなく、96〜97枚であっても100枚と見なしました。

一般に米1石が銭1貫といわれ、現代に直して米10キロ=5000円と仮定すると、1貫文は75000円と比定できます。
しかしこれを清酒で換算すれば1貫文はおよそ15万円となり、大工の日給で換算すれば1貫文は30万円となってしまいます。
適当に考えて、一貫は15万円から20万円ほどでしょう。

余剰の資金は借上、土倉などとよばれる金融業者が預かり、これを運用するなどして管理しました。

■元軍の船

近年、北九州の沿岸海底から、「蒙古碇石」と呼ばれる長柱状の石材が数多く発見されています。
花崗岩でできており、このタイプの石は朝鮮半島や中国大陸南東部で産出されます。
発見されたものは、一番大きいもので長さ13メートル、重さ170キログラムほど。
これほどの碇を積むとなると、長さ40メートルを超える大型船になるでしょう。

当時、造船が盛んだったのは福建省泉州でした。
マルコ・ポーロの『東方見聞録』によると、『船体は二重張り、甲板は1層で、甲板には多数の船室がある。マストは4本で、倒すことのできる補助マストが2本。船倉は頑丈な板で幾つかに区画され、仮に船体の一部が破損しても,隣房には浸水しない』。
おそらく水夫も含めて、船は泉州の貿易商人が提供しました。

フビライは,弘安の役に先立つ1279年、中国揚州、湖南、泉州、広州と半島の全羅道、慶尚道に造船命令を発しました。
かくして中国船は南宋より降った10万人の江南軍、高麗船は高麗と蒙古による35000人の連合軍を輸送します。

『太平記』を読みますと、
「大舶舳艫を双て、もやいを入て歩の板を渡して、陣々に油幕を引き干戈を立双べたれば、五島より東、博多の浦に至るまで、海上の四囲三百余里俄に陸地に成て、蜃気爰に乾闥婆城を吐出せるかと被怪」
(大船がずらりと並び、船と船を板で繋ぎ、自由に渡れるようにしてある。陣営毎に油幕を引き、矛を立ち並べ、五島列島より東の博多海岸に至るまで、まるで海上三百余里が突然陸地となったようで、まるで蜃気楼が起こっているのかと怪しまれるほどである)

という、日本側から見れば、まことに恐懼すべき状況でした。

■「神風」の間違い

1,武士は個人戦法、元軍は集団戦法で、戦術的・文化的に大人と子供ほどの違いがあった。
2,元軍は手榴弾や地雷のようなものまで使うのに、武士の武器は太刀のみだった。
3,元軍はモンゴルだけに騎馬兵で、武士は徒歩での突撃だった。
4,日本絶体絶命の状況でたまたま台風がぶつかり、偶然日本は助かった。

全て間違いです。
元軍は海から攻めてきたんですから、まず地雷は関係ない。
そんなの埋めたら、自分たちが侵入できなくなってしまう。
また水や飼葉のことを考えれば、兵士分の馬を持ってくるのは難しい。

台風が「神風」となったという人がいますが、逆に言うと、なぜ元軍はわざわざ生活困難な船上に留まっていたのか?
普通に考えれば、上陸して敵を蹴散らしてすぐに上陸地点に陣地を敷き、そこから侵攻開始するはずです(ブラッド・ピット主演の映画『トロイ』を思い出してください)。

元軍は6月初めに博多の志賀島に上陸し、そこから7月初めまで戦いは続きます。
1ヶ月以上戦っていたのに、元軍は船上にいて、台風にやられたという。
勝ってたなら、こんなことはありえません。
日本の武士のせいで、船に押し込められたままだったんでしょう。

あとは、日本の何もしてない公家や寺社仏閣が「俺たちが祈祷で神風を呼んだのだ」と一席ぶった。
いつの時代も、戦わない者ほどやかましいものです。

■鎌倉武士の強さ

幕府は武士たちに武芸を奨励したが、中でも弓馬の芸こそが至上とされました。
世界的に見れば、日本の武士は「重装弓騎兵」となります。

和弓の定寸は7尺5寸(約2.3メートル)で、矢の長さは12束(手で握ったときの幅の12倍。約92センチメートル)が標準。
ヨーロッパのロングボウが大きくても2メートルほど。

また和弓は両面を削った木に2枚の竹をはぎ合わせて靭性を確保してあり、さらにその竹は炭化されていたから、より強い弾性が得られる素材となっていました。

源為朝の弓が8尺5寸、矢の長さ15束、8人張りの強弓であったという話があります。
その一矢は大鎧を着た武者を3人貫通しました。
伝説だから大げさだとしても、その威力と射程距離の長さは、世界随一だったでしょう。

8人張りとはいかずとも、5人張りといって、4人が弓を曲げてそこに1人が弦をかけて作ったものは普通に存在したようです。

長弓を自在に操るには数年におよぶ訓練が必要ですから、つまりは大の大人にそういう訓練をゆるす社会でなければなりません。
通常、騎兵は経済的・訓練的に問題が多く、全軍の5%も用意できれば良い方です。
日本以外のどこの国でも主戦力は歩兵であり、騎兵は後方に回り込むなど機動力をもって補助的に用います。

ところが鎌倉武士は、全員が、
「長弓による長距離攻撃」+「騎兵の機動力」+「重装備による防御力」+を持ちます。
初めてやってきたアウェイ側(元軍)にしてみれば、地形に熟知したホーム側(日本)にアウトレンジで攻撃され、接近したらしたで、全員が弓を太刀・槍に持ちかえて白兵戦ができる。
しかも大軍勢。
これでは元軍に、勝てる要素がありません。

■武士だって名乗らない

元寇の様子として、よくあるのが「日本の武士がひとりづつ名乗りをあげる間に、元軍が集団で襲う」というもの。
鎌倉武士というと一騎打ちのイメージがありますが、そもそも一騎打ちは名誉の問題です。
武士は、相手も同じ武士でないと一騎打ちしません。
源平合戦のころより、奇襲攻撃、集団攻撃は当たり前のように行われていました。

しかし弱小の御家人が恩賞にありつくため、蛮勇をふるって一騎打ちをしかけることはありえるでしょう。
元寇の際に武士が名乗りを上げたのは、元軍にではなく、味方同士で名乗り合って恩賞請求の証人となってもらうためです。

■当時の鎌倉について

武家の都・鎌倉は20万もの人口を抱える大都市で、このとき世界の五指に入るべき繁栄を誇っていました。
鎌倉入りのルートは「鎌倉七口」といって、極楽寺、大仏坂、化粧坂、亀ヶ谷、巨福呂坂、朝夷奈、名越といった切通し。
鎌倉は南の海をのぞき、三方が山に囲まれた要害の地です。
そこで山や丘を切り開き、「切通し」と呼ばれる道を掘削しました。

かつては京都からの表玄関としては、他に海岸に沿って歩く稲村ヶ崎ルートがありました。
しかし波濤による浸食や、岩壁の崩壊で危険となり、この頃にはあまり使われなくなっています。
そこで稲村ヶ崎の手前、七里ヶ浜から谷に沿って入って極楽寺に達し、そこの切り通しを抜けて由比ヶ浜の目の前に出る、という道筋がもっとも難のないものだったでしょう。
そこからは若宮大路を北上して鎌倉に入ることができます。


タグ:diary
posted by tk219 at 15:22 | Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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