しがない有形無形の「おれ」はある日、とある料理店の存在に気づく。そのレストランはかつて満員御礼の栄光をほしいままにしてきたのだが、ここ3年ほどはろくに客が入っていない。というのもすぐ隣に同業種で大ヒット中の店があり、そこが客を次々に吸い込むブラックホールであったためである。この卑劣な策動により、哀れなレストランは照明代にも事欠き、毎日どう見ても真っ暗な店内で営業している。はたして客は来るのか? 昨日はこなかった、今日もこない、 明日もこない……ここの店主は何を食って生きているのか? ついに「おれ」は禁断の領域に足を踏み入れた……!
さて、昼の1時である。
店の前に立つ。
扉の横に「今日のスペシャルランチ」が掲げられている。さらに「OPEN」の札。
店を覗き見ると真っ暗である。
──おいおい、営業してるってのはウソだろう?
かといってランチならまだしも、夜の値段では食う気になれない。
だがここで入らなければ、また3年の年月が必要になる。
はっきり言って、この店があと3年もつとは思えない。
世のため人のためだ。勇気をもって扉を開ける。
カウンターには真っ赤なTシャツを着た奥さんが、座って帳面を繰っていた。
その背中にはなぜか「好食中華」と大書されている。
(イタリア料理店なのに……)。
奥の厨房では、主人が何やら下ごしらえしている風であった。
主人が元気のない声で「いらっしゃい」という。
奥さんは無言で帳面を片づけ、無言のまま厨房に入ってゆく。
なんか、感じ悪いなあ。
店内は、意外にもちゃんと照明がついていた。
ただガラスに遮光フィルムが貼ってあり、しかも布のブラインドを下げてあったのである。
外から真っ暗に見えて当たり前である。
主人がやってきて、私の左側にまわりこんで水をおく。
ああ、こういうのは右から割り込んだらいけないんだっけか。
メニューをひらく。主人、一度厨房へ戻る。
主人を呼ぶ。
主人は私の右方向からやってきたので、私は体を右に向けた。
すると主人はまたもや私の左側にまわりこみ、「ご注文は?」と私の背中に語りかけるのである。
変なこだわりだなあ。
ピザランチとパスタランチを注文した。
言うのを忘れていたが、1人で入ったわけでなくて夫婦で来たのである。
彼女が、不審そうに話しかけてきた。
「……空気が重い」
奥さんが中華料理風のシャツを着ているからだろうか。
いや、違う。
この夫婦に、一言の会話もないからだ。
無言で主人がピザをつくり、奥さんも無言でパスタをつくっている。
かなり分業が確立しているようだ。
でも客は私たちしかいないのだから、楽しげに、その、家族的というのか、アットホームな手作りのぬくもりでやってくれていいのである。
しかしふたりは目も合わせない。
離れたテーブルに、数年前にこの店を取材した雑誌が置いてあった。
ひらくと、同じレイアウトなのに店の色が全然ちがう。
今の店内はどんより暗い。
しかし数年前の写真は明るく、白っぽくて清潔感にあふれていた。
今だって埃があるわけではない。
しかし物が光をさえぎり(窓辺に訳のわからんギフト類がつまれている。こんなもん、奥に片づけとけよ)、長年の油アカが吹きつけの内壁にこびりついている。
埃がないってことは、ちゃんと掃除はしているということだ。
しかしそれは素人の掃除レベルであって、プロの掃除レベルではない。
まずミネストローネがやってきた。普通。
次いでサラダ。
市販のサウザンアイランド・ドレッシングがどっさりかけすぎにかかっている。
私はかつての阪神・淡路大震災の折り、救援物資のサウザンアイランドのサラダを毎日毎日食べたせいで、本当に申し訳ないことなのだが、今やこの味は吐き気をもよおす代物なのである(当時みんなが食べないので、せっせと食べていた)。
そのため、サラダはもう食べることができなかった。
思えば、最近市販のドレッシングなんて食ってなかった。
彼女はアンチョビとレモンを使ったドレッシングを作るし、私も自前でごまドレッシングを作るのである(本来の意味で、ゴマスリの好きな私)。
メインがきた。
まず主人がピザをもってくる。今度も左側からかと思えば、なぜか右側から。
なんでじゃい。今こそ右から割りこまんようにせえよ!!
次いで奥さんがパスタをもってくる。とっても無愛想。
しかも私たちは2人がけのテーブルがくっついて4人分になっている所に座っていたのだが、なぜかパスタを、そのくっついた「隣のテーブル」に置いていった……。
わけがわからん……。
だが、味はどちらも意外に旨かった。
「おいしいね」
「うん」
あまりに重い空気に滅入りかけていた私たちは、この味でずいぶん生き返った……はずだった。
食べ進むにつれ、ふたりともどんどんお腹が重くなってゆく。
たかがこんな量で……おかしい……。
「ちょっと待って」
彼女が私を止める。
私は厨房に背を向けていたのだが、彼女はずっと厨房を見ていた。
主人が、新しいピザ生地をぺったんぺったん練っている。
そこには、ありえないほどの量のオリーブオイルがドボドボと練り込まれていた。
そうすると、ピザがジューシーなのにパリッと焼けるのだ。
パスタも、きっといいクリームを使っている。ねっとりとからみつく。
旨いには旨い。しかし……。
思えば、私はあまり腹が強くないのである。
彼女は油を使わずにトマトソースもミートソースも作るし、カルボナーラなんかだと、牛乳とコンソメと小麦粉で「なんちゃってクリーム」を作ってくれていたのである。
お金を払って店を出た。
洞窟から抜け出たかのように、明るい日差しに目がくらむ。
腹が痛い。
私は彼女の、普段の料理に対する深い配慮に、心からお礼を言った。
「食ってる瞬間の味がいいだけじゃ、だめなんだなあ」
相田みつを風につぶやくと、私はお腹をおさえながら店を後にしたのであった。
(完)